s 浮世絵と図会+による江戸の橋めぐり・三ツ橋(白魚橋・真福寺橋・弾正橋)

浮世絵と図会+による江戸の橋めぐり ・ 三ツ橋(白魚橋・真福寺橋・弾正橋)

◆江戸時代、京橋川、三十間堀、八丁堀(桜川)それに楓川の四つの堀川が交差している水面があり、交差水面に近い箇所に三つの橋が架かっていた。
◆寛永9年(1632)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」には橋名はないが三橋が図示されている。
◆京橋川には白魚橋(牛の草橋)、三十間堀には真福寺橋、楓川には弾正橋の三橋である。
◆三つの橋はコの字状に架けられており、図会に紹介されたりして江戸における名所の一つであった。
◆白魚橋の名の由来は、京橋川の南側にあった白魚屋敷に向かってこの橋が架けられていたからである。また、俗称として牛の草橋とも呼ばれた。
◆真福寺橋は、近くに真福寺という寺院があったので橋の名称となった。
◆弾正橋はその東詰の松屋町に島田弾正の屋敷があったから付いた名称である。
◆弾正橋:明治11年(1878)東京府の依頼で工部省赤羽製作所で米国技術により建造された日本初の鉄橋に架け替えられた。
◆弾正橋:大正2年(1913)新しい弾正橋の架橋により元弾正橋と改称した。
◆この元弾正橋は関東大震災の復興事業で廃橋となったが、日本最初の国産鉄橋であるので 昭和4年(1929)江東区の富岡八幡宮の近くに移設され「八幡橋」として現在も歩道橋として使われている。
◆明治末に真福寺橋、昭和34年(1959)に白魚橋が河川の埋立により廃橋となり、弾正橋は位置を上流側に替えその名が残っている。

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=== 浮世絵 ===

=== 図会 ===

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