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浮世絵と図会+による江戸の橋めぐり ・ 元柳橋

◆両国橋西詰の南側に、正保年間(1644〜47)に幕府の米蔵(矢之御蔵)が造られ、そこへ隅田川から船が出入りするために作られた入堀が薬研堀であった。
◆元禄11年(1698)の火災を機に米蔵は築地に移転し、明和8年(1771)薬研堀の大半は埋め立てられ河口に近い僅かな部分のみが入堀として残された。
◆この部分に残された橋が「元柳橋」であり、難波橋と呼ばれたこともあった。
◆この橋のすぐそばに柳の木が生えており当初は柳橋と呼ばれていたが、北側の神田川の河口の橋が柳橋と名付けられたので「元柳橋」と呼ばれるようになった。
◆明治36年(1903)の薬研堀の埋立により、堀も橋も消滅した。

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=== 浮世絵 ===

=== 図会 ===