第72景 「はねたのわたし弁天の社」
(安政五年(1858)八月 夏の部)
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  左側の森が玉川弁才天、沖に見える半島は三浦半島である。
  櫓の位置から見て、舟は画面の左から右へ進んでいる。したがって対岸の川崎大師方向 へ向かって進んでいるはずだが、そう簡単にいかないのが百景談義のおもしろさだ。
  暮らしの手帖社本(「今とむかし広重名所江戸百景帖」)は、そもそも羽田の渡しは多摩 川の渡しではなく「海老取川の渡しと見る説が多い」と紹介する(否定しているが)。角川 日本地名大辞典(L東京都)も「一説には海老取川の渡しだったともいう」と記す。たし かに絵をよく見ると、羽田の渡し碑がたつ大師橋あたりから、旧・玉川弁才天がこんな近く に見えるのか、疑問に思えてくる。
  廣重の時代に海老取川に橋がかかっていたか否かが、ひとつのカギになるようだ。調べ てみると、@寛政末期(1800年ごろ)の北斎「羽根田弁天之図」には橋が描かれ、A大田 南畝(蜀山人)の「調布日記」文化6年(1809年)12月17日には「…やゝありて猟師町 にいたり、羽田の方にむかふ。蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の…」と記されている。 したがって、1800年前後に橋があったことは確実なようだが、残念ながらその50年後の百 景の時代がどうであったのかはよくわからなかった。
  ただ、「羽田の渡し」には羽田弁天から川崎大師に江戸からの寺社巡り客を運ぶ渡しも存 在した、と地元小学校の元校長先生、野村昇司氏の著書「羽田のわたし」にあり、これな らば辻棲が合う。馬頭町広重美術館図録「名所江戸百景」(2001)および浅野秀剛監修「広 重名所江戸百景」(小学館2007)ではともに羽田から川崎大師に渡る、としている。
  蛇足、揚げ足ながら、高橋誠一郎(1884〜1982)日本芸術院院長)は、この絵の解説の中 で「…画面に見える赤い鳥居だけは空港に残され、日本を訪れる客人の送迎門となってい る」と記している。大権威が語ることをそのまま信じてはいけないことがよくわかる。
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「東京シティガイド江戸百景グループ」による