第71景 「利根川ばらばらまつ」
(安政三年(1856)八月 夏の部)
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  画題の「ばらばら松」は、左手の川岸に見える。『絵本江戸土産』(初篇)でも似たよう な眺めが描かれていて、その説明文中に「鯉をもて名品とす」とあることから、ここで投 網を打つのは、おそらく鯉が目当てだったと思われる。
  では、具体的にどの地点かということになると論の分かれるところであり、ヘンリー・ スミス氏(岩波書店)は「『ばらばら松』とは特定の場所の謂ではなく、この地域に散見され た松の群れを指す広い意味の言い方だろうjと指摘し、宮尾しげを氏(集英社)は「浦安橋 のかかる妙見島辺の沿岸に、かつて、ばらばら松が構図通りあったそうだ」と書いている。
  場所を特定できる適当な証拠がないこと、広重の時代になると、『利根川』とは、今日の 江戸川、銚子から太平洋へ注ぐ本流の、南への分水路を指すのが一般的だったことなどか ら、スミス氏の言のように、「画題の利根川は、現在の江戸川(旧江戸川)下流のどこか」 と理解しておくのがよさそうである。
  網を手前に大きく描いたのは、北斎の版本『富嶽百景』の『網裏の不二』から着想を得 たのではないかといわれる。中央の帆には「布目摺」が、水際と空と陸の境目、投網の向 こうの岸影などには「ぼかし摺」の技法が用いられている。
  投網が広がった瞬間を、あたかもハイースピードのカメラで撮ったかのごとく、一瞬の 情景を切り取って画面に収めたような絵である。
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「東京シティガイド江戸百景グループ」による