第28景 「品川御殿やま」
(安政三年(1856) 春の部)
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  江戸の名所の中で桜の開花が最も早いうえ、海浜が近く、房総の山々を背景に行き交う 船の白帆が花の散るように見えたので、各地から遊客が来て賑わった。
  しかし、嘉永6年(1853)6月ペリー艦隊の来航(黒船騒ぎ)があり、同年8月に御台場が 着工されて、御殿山も崩され始めた。この絵はその後の御殿山の様子を描いている。崖下、 手前は東海道であり、品川宿の集落があった。山上には桜が咲き、花見客が多数訪れてい る。東海道側から崖の道を登る人々もいる。
  『絵本江戸土産』で、広重は台上からみた景色を2度描いている。「再出 御殿山」と題 し「昔同じ場所の絵を描いたが、その後幕府が黒船を防ぐために、御殿山を削った土で、 品川に御台場を築いた。そのため山の形が変わってしまったので、参考のためにもう一度 この絵を描いた」と説明を加えている<安政3年(1856)>。
  広重の東海道シリーズの一つ、「五十三次名所図会」蔦屋吉蔵版 安政2年(1855)刊(通 称「竪絵東海道」)竪大判55枚「品川」では切崩された御殿山を「名所江戸百景」とは反 対の側から描いている。
  故・原信田実氏(翻訳家・国際浮世絵学会会員)のホームページ「江戸百」では、「安政 2年(1855)10月には大地震があり、生々しい傷跡が崩壊した江戸のまちと二重写しになる。 名所の崩壊が江戸のまちの崩壊を暗示したと考えても不思議ではなく、変貌した江戸のま ちと名所を前に広重の唖然とする姿が見えるよう」と述べていた。
  ヘンリー・スミス氏は、『名所江戸百景』(岩波書店)の中で、「場所の美しさではなく、 場所の崩壊が記録されている」とし、「ここは、以後滔々と押しよせる近代化の波の最初の 犠牲になった江戸の名所ということになる。崖のしたではその崩壊の惨状が姿を現してい る。掘削工事の後にできたぬかるみの間を、人が列をなして通っていく。この絵に描かれ た景色は、いろいろな意味でこれからの運命を象徴するものである」と解説している。
  酒井雁高編『広重 江戸風景版画大聚成』(小字館1996)には、初摺り後摺りの重複 を除いて、広重が江戸を描いた版画が1,145点収録されている。その中から御殿山を描い た作品を数えると45点に及ぶ。因みに両国は77点、浅草は54点である。
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「東京シティガイド江戸百景グループ」による