第22景 「廣尾ふる川」
(安政三年(1856)七月 春の部)
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  広重の画で中央を流れる川は四谷大木戸で玉川上水の余った水を南に流し、渋谷川、古 川、金杉川などと名前を変えながら、芝の海に注いでいた。
  広重の「絵本江戸土産」に「麻布古川、相模殿橋、廣尾之原」と題する同じ場所を描い た絵があるので、この橋が相模殿橋であり、遠方に広がる広大な原っぱが「慶尾の原」で あることも知れる。相模殿橋は四の橋の別名なので、画家の視点が判明する。
  遠方に葦簀張りの小屋掛けがあり、その中や周囲に人影が見える。また、原っぱにも日 傘を差した家族連れがいる。左の丘の上にも人影が点在する。日傘を差した人は手前の橋 の上にも2人歩いている。季節は夏と想像される。
  尾張屋版切絵図によると左の大きな建物は「狐鰻」である。当時は江戸でも知られた有 名店であった。とすると土用丑の日が連想される。平賀源内が鰻屋の依頼で「本日土用丑 の日」というキャッチコピーを作ったと云われているが、源内は享保13年(1728)から安永8年 (1779)の人であり、広重は寛政9年(1797)生まれなので、土用丑の日と鰻の関係が江戸で知 られていたとすれば、広重の脳裏に夏の野遊びと鰻が重なっていたかもしれない。
  同じく尾張屋版切絵図には狐鰻と廣尾原の間に「狸蕎麦」と書かれた店がある。切絵図 に料理屋の固有名詞が入る例は珍しく、向島の三囲神社と秋葉神社の間に三軒あるくらい である。この辺りは江戸市中から目黒不動への道筋にあたるため、参詣者に休み場所の便 を図ったのではないかと思われる。
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「東京シティガイド江戸百景グループ」による